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kiroku

ep.1

 

日目、日曜日14:13

 

日記でもツイートだけでもおさまらない用。日々のブレを記録するため。

ずっとamazarashiを聴いている。

こうして言葉を並べる事や組み合わせる事が出来るって、物凄い才能だなって嫉妬して、中身のある音楽は大音量で聴く事が出来ない。襲われている気持ちになる。

 

昨日、下北沢でお話をした。

 

 

「利用」ってどこからどこまでが利用なんだろう、人と話す事自体がもうそこにかすっている気もするし、お世話・迷惑も利用の一部になるのでは? わたしも、誰かを「利用」したことはきっとあるし、知らずのうちに傷をつけたこともある。けどそれは気付けない。傷はいつでも付けられた側にしか残らない。傷を付ける事で何かを感じる事が出来るならわたしだってそうしたい、けど痛いのは好きじゃないなあ。

「僕らはどうせ、拾った命だ」

いつまで経っても魂と器が一体化してる感覚になんてならないし、わたしはこの容れ物を選んだ覚えもない、だけど毎日お風呂に入って洗う。汚れてたらかわいそうだもんね。心と体だって、全く別のところにあって、だけど悲しいと涙が出て、涙が出ることに安心したりして、不覚にも体として成り立っていることを実感してしまうこともある。というより、自分のなかに意識が少なくとも二つはあると思うことが多い。簡単に言えば天使と悪魔なのかもしれないな。「こうした方がいい」と言うAと、「そうしたらこうなるよ」と言うBと、何も考えていない容れ物それ自体。理解をしてもらうことはとても体力が要るから求めていないけど、せめて自分だけはこの感覚を受け入れたい。まだわからない。生きる意味とかどうでもいい、誰かのためであってもじぶんを守るためでもなんでもいい、痛くもつらくもないならいつでも消えたい。自分で踏み出す必要がないならいつだって死にたい。たとえば収容所での暮らしを映画で観たとしても中身のない悲しさしかそこには残らなくて、知識としても浅はかで、そういうのは馬鹿のすることだと自分に言い聞かせるだけで、でも観ない事の方が恥ずかしいから、観るんだけど。でも、だけどしか言えないね。意味とか理由とか歴史とか宗教とか国境とか死生観だとか、そんな事より目の前の感性を信じていたいな。隙間を埋める様々な行為を否定なんてしないよ。


amazarashi 『季節は次々死んでいく』 ”Seasons die one after another” “東京喰種トーキョーグール√A”ED